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2021

〜巧より強たれ〜『負ける覚悟』古澤速人


勝って書くからこそ『巧より強たれ』は大きく強い意味を持つと思っていた。

他大の引退ブログリレーとは少し違うと考えていた。

武蔵に負けた時点で書くのはやめようとつい先日まで思っていたが、PVと合わせて少しでもAチームの誰かのやる気に繋がるならと思い、ここに古澤速人の『巧より強たれ』を認(したた)める。長文ですがお付き合いください。

 

 

今ではTRとして奮闘しているが、僕はもともとプレイヤーとしてREDBATSに入部した。(知らない下級生、忘れている同期がいると思うので前もって言っておきます。)

 

 

 

ラクロス部に入ろう。そう決めたのは高校野球を引退する前のことだった。部活で真面目にスポーツをしている方が自分に合うと思った。

 

 

 

当時、一橋大学志望だった僕はずっとSerpentsに憧れていた。初代全学チャンピオンであり、当時関東の上位に食い込む強さを見せていたSerpentsは僕の大きなモチベーションだった。夏休みの勉強の合間に毎日のように当時の引退ブログを読んでは感動していた。

 

 

 

結果、早稲田に入ることになったが、ラクロス部に入るということは既に決めていた。

 

 

 

入学早々、所沢キャンパスでのガイダンス後、サークルのビラや勧誘には目もくれず、1人でラクロス部のブースを探したのが懐かしい。

 

 

 

4月の頭、初めて体験に参加した。何もかもが新鮮だった。一人暮らし、バイト、授業、そしてラクロス。かなり忙しかったがそれでも新鮮さからくる楽しさがあった。

 

 

 

高校まで数多くの怪我に悩まされてきたため、大学では怪我をしないように頑張ろうと意気込んでもいた。実際、夏合宿まで大きく怪我することもなくプレーができていた。

 

 

 

1年生の夏合宿、この辺りから少しずつ自分の中で風向きが変わった。合宿の1000本1on1の早々に内転筋群の肉離れで練習を離脱した。ただ、この時は『あぁ、また怪我しちゃったな』くらいにしか思っていなかった。

 

 

 

当時後藤組のリハはかなりの数がいたと思うが、誰よりも真面目に義務付けられたメニューをこなしていたと思っている。ウェイト場に行ってスマホを見て休むような真似はしなかった。

 

 

 

TRとなった今はよく分かる。当時の後藤組がどれだけ異常だったか。部員150人に対してTRは1人。手が回るわけがない。1年生の僕らのリハビリを丁寧にみている余裕は間違いなくなかったはず。その中でもなんとか時間を割いてくれていたナナさん(‘18後藤組)には本当に感謝している。

 

 

 

サマーの予選は怪我のためセットには入らず、本戦前に復帰するも実力不足で出番は来るはずもなく、、、

優勝は本当に嬉しかったが、自分がしたことと言えばPVを作ったことくらいで、力になれなかったどころか自分のことを足手まといにしか思っていなかった。

 

 

 

ウィンターに向けて頑張ろう。自分に誓った。

 

 

サマーが終わり練習に復帰したのも束の間、2週間ほどでまた肉離れをした。今考えると、どう考えてもリハビリが足りない。怪我するのは当たり前なのだが、当時の僕はどんどん気が沈んでいった。この頃の自分にリハビリを教えてやりたい、、、

 

 

 

同期はどんどん上手くなっているのに自分はリハビリ。戦術メニューには入らず、基礎技術も戦術理解もどんどん置いていかれるのが分かった。焦りしか感じなかった。そこから良い方向に向かう行動ができなかった。

 

 

 

本当に最悪の思考循環だった。誰かにこの時相談すれば良かった。自分で全て解決しようとしていた。自分の昔からの悪い癖だ。極力人を頼らない。自己解決する。

 

 

 

少しでもポジティブな思考だったら今とは違う僕がここにはいたと思う。できることなんていくらでもある。考えるだけで行動しなければ、何も生まれないのはこの4年間でよく分かった。

 

 

これを読んでいる後輩がいるなら、伝えたい。

じっくり考えるのは大事だが、アクションを必ず起こして欲しい。行動から生まれることは必ずある。行動に意味を持たせるのは自分だ。意味付けなんて後からしても良い。

 

 

『やる気が起きて行動する』のではない。

『行動するからやる気が起きる』

これは脳科学で実際に言われていることだと聞く。

難しいことなのは僕自身も承知だ。だが、継続できる人がチームで生き残り結果を残す人だと思う。歴代の先輩や今の4年生がそれを証明している。

 

 

 

 

 

 

肉離れの痛みがおさまってからも、僕はずっと股関節周囲の痛みに悩まされた。治っているはずなのになんで。冬の日は朝、駅まで歩くだけで鋭い痛みを感じた。キツかった。

 

 

 

『なんで、、、』

 

 

 

その頃ずっと頭をこの言葉が巡っていた。

 

 

 

‘18シーズンが終わり、’19シーズンになった2月、違和感を感じるものの基礎メニューには入ることができた。ただし、よくなることはなかった。

 

 

 

結局、骨盤と大腿骨の隙間が狭いことが原因だろうというのが分かり、痛みや違和感を改善させるにはさらにリハビリをしなければならないということが分かった。1年生の3月のことだった。

 

 

 

家で1人で泣いた。どうすれば良いのか分からなくなった。同期はサマー優勝、ウィンター準優勝と経験を積み上手くなる中、僕はほとんどプレーをしていない。リハビリを続けて最下層からでも良いからプレーを再開するのか。それとも違う道か。

 

 

 

本当に色々考えた。もちろん復帰して上のチームでプレーすることを残りの3年で諦めずに続けることはできた。しかし、僕は違う選択をした。TRになってから、自分よりももっと過酷な怪我をした選手を何人も見てきた。それでも皆、ボロボロになりながら選手として努力をしている。尊敬する。僕を中途半端だと笑っても良い。今でも自分の判断が正解かは分からないが、少なくとも間違いではなかったのではないかと思う。判断を正解にするような努力は続けてきたしこれからも続けるつもりだ。

 

 

 

当時部にはTRが千葉さん(‘19青木組)しかおらず、千葉さんもまたTRになって数ヶ月という状態だった。

 

 

 

自分はTRとしてなら、青木組さらにはその後の早稲田の力になれるのではないかと思い、TRに転向する旨を千葉さんに打ち明けた。転向の決断の大きさは千葉さんがよく分かっていたため、何度も僕を止めてくれた。だが最後には快く受け入れてくれた。転向してすぐLINEをくれた先輩、同期が何人もいて、本気で力になろうと誓った。

 

 

 

ここから、再度僕の中で風向きが変わった。忙しさのあまり時流が加速したかのようだった。

 

 

 

転向から1週間でアップもダウンもテーピングもやることになった。

すぐにAチームのラントレも指示出しを始めた。転向して1ヶ月、菜々美さん(‘19青木組)から

 

『早慶戦のボックスに入って』

 

と言われたときは、嬉しさより驚きが先に来て思考が停止した。

 

 

 

早慶戦が終わると1週間ほどで1人でBチームのスーパーカップ帯同をした。

 

 

 

6月になると千葉さんが教育実習で不在になり、Aチームを僕が見ることになった。この頃からチーム編成LINEにも入り、幹部陣、コーチ陣とやり取りをするようになった。

 

 

 

少し前までプレイヤーとして下にいた僕が、TRになった途端いきなりチームのトップ達と関わりを持つようになった。ここまででまだ3ヶ月も経っていなかった。

 

 

 

恐らく、同期のなかで誰よりも早く部の中枢に関わり、幹部陣やコーチ陣のやり取りを見てきた。この期間が僕の成長に大きく関わった。

 

 

 

本気で青木組の力になりたくて、自分のプライベートをTRの勉強に置き換えた。塾講師のバイトは辞め、フィットネスジムのインストラクターとしてバイトを再出発し、りんた(4年高田)にお願いして、自分の授業の合間にスポ科の授業に潜りに行った(よくスポ科と間違えられますが僕は人科です)。検定を受けに行ったり、部活を休ませてもらって3日間救急法の講習に行ったり、積極的に他大の勉強会に参加したりした。

 

 

 

この頃、頼ってくれた同期の存在は本当に大きい。TRになったばかりの自分に怪我の相談などをしてくれる人が何人もいて、その度に必死に情報をかき集めた。特に大きなことができたわけではないが、TRとして初めての公式戦があすなろで、優勝した時は初めて新人戦で心から喜べた。

 

 

 

『この同期なら日本一が獲れる』

 

 

 

本気で思った。

 

 

 

『日本一に相応しい知識・スキルを身につけよう。』

 

『他大の同学年のTRに負けるものか。』

 

『スポ科じゃない自分のレベルが高ければ、全学生TRは言い訳ができない。そうなってやろう。』

 

 

強く誓った。そこからここまで、積極的に色んなものを吸収してきた。青木組の日本一に最前線で関われた、丸田組が決勝で慶應に負けるのを目の前で見た。

 

 

 

いよいよ平野組。最終学年。まだまだ未熟だが、自身としてはもっともスキルも知識も蓄えている状態だ。チーム全体を動かすことができる。

 

 

 

だが、足りなかった。そう言わざるを得ない。理想とは程遠い一年になった。

 

 

 

2021年9月20日武蔵戦。東伏見サッカー場。

 

 

 

一生忘れることはないだろう。その日、僕はボックスにいなかった。みんなの勇姿を映すため動画撮影に集中していた。

 

 

 

武蔵は甘くなかった。

 

 

 

悲劇の5秒。動画を撮りながら、頭が真っ白になった。

 

 

 

すぐ隣で武蔵の配信スタッフ達が喜んでいるのを見て、サマーの決勝を思い出した。3年かけて、初めて立場を逆転された。

 

『悔しい』

 

 

そんな単純な言葉では言い表せない感情だった。

 

 

 

ヨシ、海斗、昇汰が近くで泣き崩れていた。幹部として早稲田を引っ張ってきた面々だ。

その涙は誰よりも

 

重く

 

悲しい

 

ものに見えた。

 

 

 

全員に問いたい。

今まで、どれだけの時間をラクロスに捧げてきた?

 

『勝ちたい』じゃない。『勝たなければいけない』『勝つのが当たり前』という早稲田でどれだけ

『負ける覚悟』

を持って試合に臨んだ?

 

僕の言う『負ける覚悟』とは『少しの綻びが負けを生む可能性があることを認識すること』だ。

 

 

勝つのは余裕だと思って臨んだ者などいなかったと思う。

ただ、

『まさか負けるとは』

このような言葉が頭に浮かぶ時点で、慢心や油断があったのではないか?

 

 

 

ここからは想いをさらに強く込めたいため、一人称を『俺』に変える。

 

 

 

俺たちはもう日本一は目指せない。

この事実は変わらない。

受け止めるしかない。

 

 

みんなに聞きたい。

このまま何もせず負けを認めて引退するのか?

違うよな。今でもみんな本気で練習に取り組んでいる。

 

 

俺たちが積み上げてきた強さをたった一度の負けで評価されたくない。

少なくとも俺はそう思っている。

 

 

今はまだ新しい早稲田の始まりにすぎない。

最後に一度だけ、俺たちの強さを見せることができる。

ここからまた新たな伝統を始めよう。

来年は後輩達が勝ってくれる。

だから、その礎になろう。

 

貪欲に

勝利を求めよう。

目の前のワンプレーに執念をぶつけよう。

 

 

今までお世話になった

コーチ、先輩、家族、その他色々な人達の想いを背負い

『最後の挑戦』をしよう。

 

 

 

立ちはだかるのは立教。

 

六大戦覇者。

 

相手に不足はない。

 

それぞれ立教に対して色んな想いがあると思う。

 

 

 

正直、ただ勝つだけじゃ足りない。

圧倒しよう。

 

 

 

何一つ、気の緩みを見せるな。

最後の瞬間まで何が起こるか分からない。

 

 

 

怪我で満足にプレーできない、試合に出られない人たち。

TRとして万全な状態で最後の試合に臨ませてあげることができなくて申し訳ない。

ただ、全員にできることがある。

アップから雰囲気を作って欲しい。

周りもそれに呼応して欲しい。

終始圧倒しよう。

 

 

 

最後に一つ

あと一つだけ

勝利を積み上げて

『平野組のラクロス』を終わらせよう。

 

 

 

スタッフとなってからもずっと

『勝たなければいけない』

そう思ってきた。そのためにTRも動画作成も画像作成もできる限り取り組んできた。

(だんだん手が回らなくなってきてすみませんでした。後輩達、あとは頼みます)

 

早慶戦ですら、『勝ちたい』よりも『勝たなければいけない』という想いが強かった。実際に戦うのは選手だけど、俺は勝手にそう思っていた。

 

 

 

でも、最後だけ。次の立教戦だけは

 

 

『勝ちたい』

 

 

 

もう、負けたくない。関わってきたみんなの負ける姿を見たくない。

 

 

 

勝負だから負ける可能性は必ずある。

『負ける覚悟』を持っているからこそ勝利の価値は大きくなると思う。

『負ける覚悟』は勝利の追求を強くする。

全員『負ける覚悟』はあるか?

覚悟を持った上で勝利を渇望しているか?

 

 

 

何度でも言う。

俺は

 

 

『勝ちたい』

 

 

みんなと

 

 

『勝ちたい』

 

 

 

最後まで本気でやり抜くのが

 

“GRIT“

 

を掲げた俺たちの使命だ。最後は後輩達にカッコ良い平野組を見せよう。

 

 

『勝ちたい』

 

選手のみんな、頼む。

 

スタッフのみんな、最後まで一緒に闘おう。

 

 

 

今、ここ、自分。

 

 

全員で最後までやり抜こう。

 

 

 

GRIT

TR 古澤速人

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